SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

8月のトーハクその1

東京は上野

東京国立博物館

太刀(名物 三日月宗近)

伝来は豊臣秀吉の正室・高台院(寧々)、徳川秀忠、以降は徳川将軍家

短刀(名物 厚藤四郎)

伝来は足利将軍家、一柳直末、黒田如水、豊臣秀次、豊臣秀吉、毛利秀元、徳川将軍家

太刀 大和物(号 獅子王)

伝来は源頼政、徳川家康、土岐家

紺糸威二枚胴具足

小堀政一(遠州)所用と伝わる

信楽不二文茶碗 本阿弥光甫作

緋襷一重口水指

松平不昧旧蔵

柿本人麻呂像

伝詫磨栄賀筆、性海霊見賛

 

次回も東博

 

畠山美術館 茶道具と銘をめぐる物語 2607

東京は白金台

畠山美術館

茶道具と銘をめぐる物語

期間:7月4日(土)~8月2日(日)

豊臣秀吉画像 伝 狩野山楽筆 近衛信尹賛

直衣姿で佩刀、頭に唐冠を被っている。豊臣秀吉は慶長3年(1598)8月18日伏見城で死去しているが、この肖像画には慶長三年八月日の年記が記されている。
原三渓旧蔵。

瓢花入  銘 木兎 千道安作

黒い瓢箪の上部に穴を穿ち花入とした道具。銘のとおりミミズクに似ていて、中々にひょうげた形をしている。
父・利休の瓢花入では上部を切り取った「顔回」が有名だが、道安は父と違い上部を残している。

姫路藩酒井家伝来。

蕎麦茶碗  銘 螢

大ぶりの平茶碗。窯変により青灰釉と枇杷釉の片身替りとなっている。

松平不昧が箱に「螢 そばかす」と認め、『雲州蔵帳』の「上之部」に記載されている。

共筒茶杓 銘 海士小舟 小堀遠州作

一本樋で切止近くの景色が見所か。

源実朝の和歌「世の中なかハ つねにもがもな 渚こぐ海士の小舟の つなでかなしも」を筒に認める。

共筒茶杓  銘 我慢 江月宗玩作

全体が黒く、下り節の茶杓。江月の茶杓は希少で、他の茶杓は遠州に影響を受けた美杓だが、これは醜悪ともいえる異形である。

銘は通常は「辛抱」といった意味ですが、禅語では「自己中心的で慢心や自惚れの心」を指しこの茶杓の姿そのものとも言えます。

猿町カフェにて休憩。茶碗は黒織部沓形写、お菓子「くろす」檸檬あんが暑い時期にぴったりでした。

彦根城博物館 井伊家歴代の指料 2607

滋賀は彦根

彦根城博物館

井伊家歴代の指料 ―選ばれた名刀の姿―

期間:7月24日(金)~9月14日(月)

太刀 銘 来国光

初代・井伊直政所用

太刀 銘 国宗(備前二代)

小田原攻めの際、一番鑓の報償として長野業実が直政から拝領した。

刀 無銘 伝・三原

二代・井伊直孝所用

刀 無銘 伝・長船倫光

直政→直孝そして三代・井伊直澄へと受け継がれた。

刀 無銘 伝・左(名物 織田左文字)

『享保名物帳』によれば信長所持で次男の信雄へと渡った。

短刀 銘 武田晴信作 / 天文六年七月日
12代・井伊直亮が入手したもの。
武田信玄が作ったとは思えないが・・・

 

 

大阪美術倶楽部 藪内燕庵の名宝展 2606

大阪

大阪美術倶楽部

流祖藪内剣仲四百回忌記念 茶家五百年の歩み 『藪内燕庵の名宝展』

期間:6月28日(日)

桃山柳橋図屏風

宇治川をモチーフにしたと考えられる柳橋水車図屏風の片双で、秀吉より初代・剣仲が賜った。

狩野永徳筆と伝わる。

古瀬戸肩衝茶入 銘「八重桜」

燕庵名物。剣仲が奈良で見出した茶入で、秀吉が伊勢大輔の古歌「いにしへの 奈良の都の 八重桜 ~」より銘を付けた。

茶入盆は利休より元は楢柴茶入の唐物彫物盆が贈られている。

大和熊川茶碗

八重桜茶入を拝見した大和大納言秀長がそれに取り合わせるようにと剣仲に与えたとされる高麗茶碗。

八重桜茶入を使用するときに必ず取り合わせて、家元継承の茶事にのみ使用される。

天命広口大霰釜「猿釜」

もとは引拙所持で、烏丸光広が剣仲所持の藤原俊成の懐紙を所望し剣仲が進呈したことから代わりにこの釜を賜ったという。

家伝の情報はこれだけなのですが、『山上宗二記』によれば引拙の大霰の猿釜を大納言秀長が所持しているとあり、秀長の死の前後に烏丸家に渡ったとすればこの釜がそれなのかもしれません。であればこの釜も豊臣家ゆかりとなります。

 

今回は豊臣兄弟ゆかりの道具を紹介したが他にも足利将軍家伝来の「天下一」丸壺、足利義政から三条西実隆を経て藪宗把に伝えられた花生「姫瓜」、長次郎作の黒楽「杜長」、茶杓も紹鷗「あさぢ形」・利休「孫の手」・織部・剣仲「望月」そして秀吉の「残月」と豪華。しかもガラスケース越しではなく直に拝見できる稀有な機会でした。

 

さらに呈茶もあり大阪美術倶楽部の雪月花の間にていただきました。

こちらの床にも松花堂昭乗筆の寒山拾得図二幅がかけられていました。

慶沢園 茶室「長生庵」

大阪は天王寺

旧黒田藩蔵屋敷長屋門

江戸時代中期の蔵屋敷の表門で、中之島三井ビル付近にあったものを現在の天王寺公園内に移築した。

慶沢園

もとは大阪の豪商住友家15代・住友吉左衛門友純(春翠)の本邸庭園で、大正10年に大阪市に寄贈された。

七代目小川治兵衛の作庭した林泉回遊式庭園。

琴柱灯篭

 

さて本題。

今回は”長生庵で初夏の風を感じるお茶会”でうかがいました。

茶室「長生庵」

昭和35年に住友家より寄贈され移築された茶室。

最初は小間から

内部は二畳台目

表千家の宗匠を務める堀内家の茶室「長生庵」の写しで、窓の構成に若干の違いがあるがほぼ本歌と同じ構成。

床

点前座の二重棚

 

次は広間

八畳

床と床脇

通口

鴨居上の自然木の吹き抜け

美味しくいただきました。

大阪城西の丸庭園 茶室「豊松庵」

今回は大阪

大阪城西の丸庭園

豊臣秀吉の正室・北政所(寧々)の屋敷があった場所とされている場所で、昭和40年(1965)に芝生庭園として開園した。

大阪城を眺めつつ向かったのは

茶室「豊松庵」

松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助が昭和44年(1969)大阪市に寄贈された茶室。

「豊松庵」の名前は、豊臣秀吉の「豊」松下幸之助の「松」から命名された。

広間前の蹲踞

広間

早速中へ

内部は十畳

室内から大阪城がよく見えます

「鶴屋八幡」の和菓子

美味しくいただきました

 

お次は

四畳半前の蹲踞

四畳半茶室の外観

内部の様子

一般的な四畳半の造り

入口は躙口と貴人口を設けている。

天井は網代

寄付

六畳間

立礼席もありました。

 

豊臣秀吉は大坂城内に二畳、四畳半、八畳などの茶室を作っていたが、この西の丸では無かったようです。

山里にあった茶室が有名ですが、いずれにしても秀吉と利休をしのばせる大阪城の茶室でした。

走井 月心寺

滋賀は大谷

逢坂山関祉

平安時代、三関と称された関所の一つ。

蝉丸の詠んだ百人一首の「これやこの行くも帰るも別れては しるもしらぬも逢坂の関」で知られる。

走井

かつて旧東海道沿いにありにぎわった走井茶屋の跡であり、大正初期に画家の橋本関雪がこの地を購入し別邸を建てた。

走井横井戸井筒

走井は名水が湧き出ることで有名であり「走井」の名も湧き水そのものを表す。

夢白軒

如在殿

1868年明治天皇の行幸の際に休憩所として使われた

如在殿内部

走井庭園

室町時代に足利将軍家に同朋衆であった相阿弥の作庭と伝わる。

中央付近には走井源泉からの飛泉がある。

百歳堂

庭園の斜面の中腹に張り出すようにあり、小野小町の百歳像を安置する。

百歳堂から庭園・走井居などを眺める。

茶室

百歳堂に増築するかたちで作られた。

全体四畳半で、半畳を踏み込み床とする。

奥庭

最奥には松尾芭蕉の句碑「大津絵の筆の始めは何仏」が置かれている。

三聖堂

庭園の一番高いところにあり、小野小町、蝉丸法師、松尾芭蕉の三歌聖が祀られている。

建物横に茶室へ向かう待合がある。

 

いったん外に出て京都へ入ります。次に向かったのは月心寺。

橋本関雪夫妻の菩提寺。

膳所城の遺構と伝わる石垣

雨花亭

昭和15年に建てられた。

以上です。

 

さて大津側に戻って向かったのは

鰻で有名な「逢坂山かねよ」

きんし丼をいただきました。